寒いね、と口にすれば

実家に帰る楽しみの一つが飼い犬に会うことだ。

白くて、むくむくしている。
たったそれだけの条件で選ばれたというこの犬は、
自分が研修医になって実家を出たときに入れ違いで実家のメンバーとなった。

名前はエルメス。同名の革製品はひとつも持ったことがない。
彼女にとっては、たまに訪れる私という人間はまったくの門外漢である。

お手とおすわりが上手だ。
「待て」はわかるが、「よし」がわからないらしい。

もちろん生産性のある会話は成り立たない。
ただ、そこにいてくれたり、いてくれなかったり、しながら
こちらの様子を伺ったり、こちらの言動に喜んだり怒ったりしながら
日々を生きている。

そんな彼女のタイミングも構わずに、私は「寒いね」と声をかける。
少し振り向いて、反応するでもなくかけっこで立ち去っていく。
しばらくすると隣に来て、私の膝に頭を乗せてくうくうと寝息をたてていた。
ここが外敵に襲われない環境であることを本当の意味で理解しているのかはわからないが、
彼女は外来種の私にも一定の理解を示す。

あぁ寒くなった。白いむくむくの温かみを感じながら私は
どんな生き物にも、その一生を送る上で共通する事柄があることに気づく。

ーーー「自分らしく」生きるということ。

選ぶことのできない状況や、想定できない困難の前に、どうしようもなく選択肢がなくなることだってある。
どうしてこんなことに、こんなはずじゃなかった、そういうことも多いようにおもう。

七転び八起きだとか、残り物には福があるとか、昔の言い伝えに助けられることもあれば、
あぁ全然8回目こないじゃないか、となることもある。

でも、いつだって「自分」には戻ってこれる。
逆を言うと、戻ってこれる「自分」を知っておくことは一種の武器だと思う。

だから

その人がその人らしく生きることができるように。
医療もそういうサービスなんじゃないかと思う。

インフォームドコンセント(説明と同意)が世の中に浸透して久しいが、
医療はかつてパターナリズムとよばれた医師絶対主義を批判し、患者による選択を重視するようになった。
そして患者が適切に選択肢を理解して選択するためには、医療者側がわかりやすく情報を提供していくことができるよう、
努力することが必須であり必然の課題であると強く思う。

果たしてそれが上手にできているか、というと、判断も難しいことではあると思う。
ただ医療者はどんな状況・どんな患者さんに対しても均等な機会を提供できるだけの十分な準備をしておく必要があると思うし、
情報社会の昨今ではそういう努力や質が問われるようになっていると思う。

そしてどんなときも過信してはいけない。
つねに準備を更新しつづけなければならないと思う。

そんな強い自覚を抱き緊張した私を、白いムクムクが励ましてくれる。

「エルちゃん、今日は寒いから散歩はやめておこうか」
理由を述べて散歩を断ると、寂しそうにしっぽの揺れる速度が遅くなる。

「寒くても、走ればあたたかくなるね」
小さなことでも、新しい選択肢の先に信頼関係が温まっていく気がする。
でも同時に、お互いに分かり合えない部分があることも知っていなければいけない。

今日も、誰だって自分を生きる。
今日も明日も、これまでもこれからもそしていつまでも自分らしく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です